ミュンヘン

世界の射殺から(爆殺まで)

フィルムからにじみ出る70年代の空気と、実話ベースとはいえ、まんま『必殺仕掛人』のようなプロット(繰り返される食事と殺しの対比!)。『フレンチ・コネクション』『コンドル』といった黄金期の骨太かつ、いぶし銀のアクションやスパイ映画を観るような軽いワクワク気分は、だがしかし、最初の標的を銃撃するシーンで粉々に吹き飛ばされる。
強力かつ強引な演出と激烈な音響デザインによって、スクリーンの向こう側から高みの見物を決め込もうとする観客は、一気に殺人進行現場に引きずり降ろされてしまうからだ。


そこで描かれる「はじめてのあんさつ」に爽快感や達成感は欠片も無く、黒すぎるユーモアと立ちこめる陰惨な死の匂いには、恐怖に引きつった半笑いを浮かべて震える事しかできない。そして陰々滅々とした「世界の射殺から(爆殺まで)」の旅は、終着点の見えぬまま、ただひたすらに続いていくのだ。


「平和への祈りでも何でもない」と某毒舌監督が激怒した通り、この映画には紋切り型の「平和への祈り」よりも、はるかに現実に対する絶望の色が濃く流れている。
国や人種や立場が違う様々な人々が祖国への狂おしいほどの思いを吐露するが、どれも一方通行で対話の形を成さない。
終盤、主人公のロマンチックな言葉に対して常にシニカルな反応だった妻が、報復の旅に疲弊しきった夫に思わず「I LOVE YOU」と告げる場面も、全く救いの描写にはなっていない。


娯楽映画ならではの多彩な技巧を尽くし、3時間の長さに渡って描かれた物語の最後に待っていたのは、未来に向けたポジティブな主張などではなく、ごろりと投げ出されたどん詰まりの絶望だけ。そのあまりにペシミスティックな結論に対する批判や非難は多いが、世界一有名なアメリカの映画監督が、メジャー大作で自分の絶望を正直にさらけ出す事しか出来なかったという現実に、僕はどうにも「感動」してしまうのだ。


いいじゃん、絶望のどん底に立って見えるものも、何かあるかもしれないし。という訳で僕は今、原作を読んでますよ。